ほろ苦い思ひ出(52)

遥か昔の留学時代、20歳過ぎの身をあらぬ土地で送った記憶を、86歳も半ばを越したいま弄(まさぐ)る作業は、側で思ふほどに容易でない。さり気なく淡々と綴りながら、不図、触れたくもない記憶が蘇って指板を叩く指が滞る。これが人の目に触れると思へば、差し障りなく書き連ねるのが知恵と、脇目をしてやり過ごす。街中のグロサリショップで受けた親切を懐かしみ、見知らぬご婦人から贈られた奨学の志に絆(ほだ)されるなど、云ふならアメリカ佳きかなの伝を綴りながら、何時かな生来の一本気がむらむらと鎌首をもたげる。おい、辛かったこともあったじゃないか、苦学記ならばそんな出来事も避けてはならぬ、ほろ苦い思ひも隠さず語れ、と背中を押すものがある。

思へば、後年のユタ時代と加州時代を重ねれば、故なき仕打ちを受けた経験が確かにあった。在米が長くなるにつれ、あの国に潜在する差別意識を肌で感じるにつれ、そんな仕打ちへの反応は鈍ったのだが、留学間もないボイシで受けた仕打ちは、潜在的に敵地に乗り込んだばかりの身には心理的にきつかった。先の大戦の尾を引くもので、やはりなぁと云ふ感覚と何たる仕打ちかと逆らふ気持ちが半ばして、心穏やかならぬ心理状態だった。思ひ立ったが吉日とやら、本稿ではその話しをさらりとご披露して、滞る苦学記の進捗を図るべく、云ふならガス抜きをしやうと思ふ。

アメリカでの日系二世の評価はいい。親世代の一世たちは農業に勤(いそ)しみ、ハワイならパイナップル、加州ならイチゴに野菜と、独自の一次産業を拓いて日系社会を築いた。二世たちは親を継ぐものあり、器用さを買われて庭仕事に新天地を開くものも多かった。日本人には遠州の因子でもあるのか、庭師として名を馳せたものも多い。

そんな巷の評判があってのことか、芝刈りのアルバイトは日本人の私の得手だったのである。学内の掲示板に張り出されるアルバイト口から、好んで芝刈りを選んでゐた私が、ある時思ひ掛けない”事件”に出会ふのである。その日目に止まったのは街の外れの某家、広い庭の芝は刈り切るに3時間は掛かる。時間1ドルが相場だから占めて3ドル、時間1ドルは悪くない。大学構内だと夜間の集中工事で手間賃が1ドル強だから、昼間の芝刈りなら割りがいい。

芝刈り機は向かう持ちだから、手ぶらでいい。ある午後、講義の合間に自転車を駆って出かけた。着けば確かに広めの庭だ。伸び加減も程々で刈り頃だから厄介はなさそうだ。ドアベルを押して家人を呼ぶ。いっ時あって奥さんらしき女性が出て来られた。芝を刈りにきたと云へば、彼女はこちらをじっと眺めてしばし無言。ややあって曰く、芝刈りはもう済んでるからいい、と。刈り頃の芝を見ながら私は返す言葉に詰まった。まだ刈ってないじゃないかの一言を云えぬまま立ち尽くす私をそのままに、彼女はドアを閉めて消えた。

あの出来事を思ひ出すごとに、私は理由なく疎外される慮外な思ひに沈む。これ程の月日が経っても、刈ってもいない芝がもう刈ってあると言われて引き下がった、形容のできない屈折した心象風景が忘れられない。グッときた感情を抑え込む術(すべ)をもう一節(ひとふし)覚えた瞬間だった。戦争で息子を亡くしたか、他の日本人への悪感情が転嫁されたか、そもそもAsiaticsへの嫌悪か。それ以来、私は芝刈り話しにはうっかり乗らなくなった。

あの経緯(いきさつ)はあっても、ボイシ時代のアメリカ観は推し並べて穏和だった。チェイフィー先生の引き回しもあって、好意的な人々に囲まれ、日々は淡々と流れた。アメリカの差別意識の潜在性は、後年ロスでしみじみ実感することになる。ボイシでの芝刈り事件は、その微かな前触れだった。

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